2011年12月21日水曜日

マージャン三昧

ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ7
とはいえ、英語劣等生のボクにとってESSはもはや、ついていけない世界となっていた。大学の緑の木々が赤く色づく頃、ボクはクラブをリタイヤしていた。
それからというもの、ボクは下宿の仲間たちとマージャンや合コン、合ハイにいそしんだ。ことにマージャンは、幼いころからだいたいのルールを飲み込んでいた。地方記者だった親父は、記者仲間と昼間からでもマージャンをしていることがあった。記者は、祝日、昼夜関係のない仕事で、夜中にも火事や台風洪水など大きな事故や事件があれば、車を飛ばして駆けつけていた。が、昼間でも事件がない時には、新聞の切り抜きや、日々の原稿書き、それが済めばパチンコやマージャンだった。今の時代ではそんな訳にもいかないのだろうが、古き良き時代といえるのだろう。幼い頃から、卓を囲む記者連中の後ろから覗き込み、ひとつのゲームとして、小学生のころには、ほぼ理解していたように思う。
大学では、下宿の同級生たちはマージャンのマの字も知らなかったので、必然、ボクが教えることになった。もちろんルールだけならほんの2030分もあればおぼえる事ができ、時間が有り余る当時の大学生たちにとって、経験を積むことも容易いことで、毎日のようにマージャンに明け暮れた。

2011年12月12日月曜日

NPセクに


ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ6
そんな中、ボクはESSの夏合宿を経験した。スピーキング、スタンツ、ディベートなどを合宿中にやるのだが、その準備に合宿の1週間前から、合宿期間を通じて睡眠時間が35時間という日々に、英語劣等生のボクは、人並み以上に苦しんだ。そんなボクを見かねて、同輩や先輩までもがスピーチの原稿を手直ししてくれたり、加筆してくれたり、仕舞には、スピーチの途中でセリフがすっとんでしまったボクに、横から教えてくれたりしていた。そんなこんなで夏合宿を終えたものの、ことさらにしみじみと劣等生を実感させられていた。
合宿の後、しばらくしてセクションに分かれての活動が始まる。ドラマ、スピーチ、ディスカッション、ディベート、ニュースペーパーがあり、さらさら英会話ができないボクは、文章ならまだしもと、ニュースペーパー・セクションに所属することにした。
それは数学のLim(リミット・極限)をとるように、新聞とのかかわりの中へと導かれていたようだった。

2011年12月5日月曜日

ESSに


ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ5
実は、というか、すでに述べてきているが、元来、理系を目指していたボクは、理系が得意というより、文系学科が苦手でもあった。特に、当時関学は、英語の配点が高く、周りはほとんどが、英語で合格したような人間が多かったので、一際、英語の能力が低いのを実感した。
話は飛ぶが、中学時代は陸上部で幅跳びと三段跳びで県大会にも出場していたボクは、高校時代にはクラブに属さなかったものの、身体能力には多少の自信を持っていた。大学に入れば、流行のアメリカンフッボールをしたいと思っていたのだが、関学は他を寄せ付けない勢いの王者。チラリと練習を見ただけで、痩せ身の体ではとてもじゃないが、ついていけないだろうと判断したボクは、だったら「苦手な英語を克服するためにESSに入ろう」と、フラリとクラブの門を叩いた。
関学のESSは全国屈指のクラブで、厳しい事でも知られていたが、そんなことは、まったく知らずに入ってしまった。
ESSクラブはイングリッシュ・スピーキング・ササェティの略。英語好きが集まっていた。この時代、毎年100名以上の新入学生がこのクラブに入部していたが、卒業までにはその78割りが退部するという厳しさだった。毎日の英会話の練習に、さらさらついていけないボクだったが、「新入時にはなるべくメンバーを留めておこう」という戦略のゆるやかな活動のなか、劣等生なりに楽しく過ごしていた。

2011年11月21日月曜日

結局文系に


ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ4

翌年の春、ボクは関学のキャンパスに立っていた。
浪人の最初から文系を目指した訳ではなく、その年には目指す大学・理系に合格する実力には、何とか達していた。どちらかと言えば、私立の文系、関学のほうが理系を志望していたボクにとっては、不利な条件での受験だったように思うが。不思議なもので、親父の戦略に導かれるように大学・文系に落ち着いた。
大学に入ると、ボクは遊びに遊んだ。今考えると学費も時間も、もったいない話なんだが、「大学に入れば、あとは遊ぶだけ」といった当時の風潮にも流された。
3年生になると、専門ゼミの選択がある。ボクは、志望した「コミュニケーション」のゼミになんとか入れてもらえた。マスに対するミニ、ミクロ社会の世界なんだが、そのゼミは人気が高く、後に、ゼミの教授に話を聞くと、「あなたとA君は、取るのを迷ったのよ」と。それもその筈で、12年時の成績は、「優」が全部で34コ。偏差値にたとえると、40にも満たなかったんだと思う。どうして取っていただいたのか、聞けず仕舞いだったが、それも1つの「縁」。特に意識をしている訳でもなく、ちょっとずつマスコミの道に近づいていた。

2011年11月17日木曜日

理系だったのに

ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ3

実は、親父が新聞記者をやっていたという背景もあったが、正義感が強く、新聞は社会的な信頼性が高いと判断していた若かりしボクは、新聞記者という職業を目指す事に違和感はなかった。でもその実、親父の戦略にもはまっていた。高校時代、理系の道を進んでいたボクは、新聞記者を目指そうとは、ほぼ思っていなかった。特に、これといって何になりたいという希望はなかったが、数学が得意という理由だけで理系に進んでいたボクに、親父はこれといって何も言わなかったが、高校3年生の夏、親父はこう切り出してきた。「たまたまこんな大学を雑誌で見かけたが、どうや、受験してみたら」と、一揃えした関学の資料をボクに手渡した。当時関学の理系には理学部しかなく、工学系を目指していたボクは、興味を示さなかったものの、親父は、「文科系を受けててもいいんやないか」というような事を言った。
そう言えば、時折、親父は「お前何になりたいんや」と言っていたような気がするが、新聞記者になれ、と具体的には言っていなかったように思う。でも、この時、「ははぁん」、やっぱりボクに新聞記者を継がせたいのだ、と、悟った。幼い頃から新聞記者を見てきたボクは、特にそれに抵抗する訳でもなく、まぁ、理系の大学に行けなければ、それでもいいか、というようなことをぼんやりと考えていた。
とはいえ、ボクはその年、見事に受験に失敗。
1年間、浪人生活を送る事になった。

2011年11月14日月曜日

それがどうして

ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ2

Aくんは、その後も、自分の夢であるコピーライターについて、あれこれ、何彼、話してくれたに違いないが、ひとつとして、記憶のカケラもない。ただ最初のひと下りのみ、かすかに覚えていたくらいである。
「それがどうして」コピーライターになったか、いや、なってしまったかは、まだまだ先の長い話である。
ところで、新聞記者とコピーライターと、同じ文章を書く仕事なのに、どう違うのと思われた方も多いと思うが。ぜんぜん、違う。
新聞記者は、「事実をありのままに、個人的な感情を移入せずに人々に報道として、伝えるために、人に会い、資料を繰り、現場にでかけて取材し、端的に正しい文章で、書く」のである。コピーライターは、「事実をひんまげて、私的な感情をむきだしに詰め込んで、お金儲けの手段として、人々に商品等の良さ伝えるために、人に会い、遊び、空想をし、文法をこわしてでも影響力のある文章を書く」というようなもの。
どう?、違っているでしょう。
実際には、こんなに単純な比較で語りきれるものではないが、根本的に違っている。
この当時、新聞の社会的影響力や信頼性は、他のメディアに比べて、1ランクも2ランクも高かった。

2011年11月11日金曜日

ライターって何する?

ボクが・コピーライターに・なった・いきさつ1

大学生のころ、ボクは新聞記者を目指していた。
4年生の秋、友人たちが商社や旅行社、保険会社に次々に内定する中、一足遅くに実施される新聞社の試験勉強をしながら、多少の焦りを感じつつも、一般の会社の面接には行かなかった。ただ、ひとつ、友人が住友商事の面接に行くというので、会社の面接というものが、どんなものかと一緒に受けに行った。ほんの少しの浮気心もあったに違いないが。もちろんのごとく、面接で何を聞かれても受け応えできず、3分ほどで「それでは」で終わった記憶がかすかに残る。今考えれば、入社希望者に対しても、会社に対しても失礼な話だった。
一方では、新聞社の庶務のアルバイトに行っていて、ゲラを持って走ったり、某県庁の記者クラブや気象台等に届け物をしたり、新聞社の雰囲気を味わっていた。そのまま新聞社に潜り込めるのではないかというかすかな期待も込められていたかと思うが、そんな事はまったくあるはずもなかった。
そこで知り合ったアルバイト仲間に、「コピーライターになりたい」という人物がいた。当時ボクのコピーライターという職業に関するイメージは、「ダヨネとかジャンとか東京弁を使い、チャラチャラした程度の低い職業」ぐらいのレベルでしかなかった。当時すでに有名だった糸井重里の存在すら知らなかった。
「コピーライターって結局、何するん?
ボクが単純に抱いた疑問だった。
コピーライターになりたいという仲間Aくんは、
「会社のテレビCMやパンフレットのコピーを書いたり、新聞広告のコピーを書いたりするんや。1ラインのキャッチコピーを書いただけでも1万円以上も貰えるんやで」とか、何とか言っていたに違いない。
まったくコピーライターに興味のなかったボクは、
「へぇっ、1行書いただけで1万円も貰えるんか。スゴイな」
などと自分が聞いたにもかかわらず、上の空で答えたろう。